浄土宗

浄土宗の歴史
法然は、比叡山で長きにわたり真理を求め、1175年、43歳の時に善導が著した『観経疏』の「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」という文章によって、専修念仏(ひたすら念仏をする)に到達。ここに、性別・貴賎を問わず、どんな凡夫でも、阿弥陀如来の本願を信じてひたすら念仏を唱えれば、必ず極楽浄土に往生できるという教えを掲げる浄土宗が開宗しました。この「ひたすら念仏を唱えれば、必ず極楽浄土に往生できる」という教えはまたたく間に広まりました。 しかし南都奈良仏教や比叡山など既成宗派より伝統的な仏教を否定するものとして弾圧を受け讃岐に流罪になります。後に赦免され京都に戻り「一枚起請文」を最後の教えとして80歳で知恩院にて入寂します。法然の死後、弟子達によって浄土宗はさらに広まってゆきました。
浄土宗の開祖【法然上人(ほうねんしょうにん)】
浄土宗の宗祖法然は、長承2年(1133)美作国に生まれました。幼くして父を失った法然は遺言にしたがって仏の道を志します。叔父の観覚のもとで仏教を学んだ後、比叡山東塔西谷功徳院の皇円のもとで出家します。 それから25年間、救いの道を求めて苦悩しながら、ひたすら仏道を追い求め、そしてついに43歳の時、善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。 この「念仏を唱えれば救われる」という教えは庶民の間にまたたく間に広まりましたが、南都奈良仏教や比叡山など既成宗派より伝統的な仏教を否定するものとして弾圧を受け讃岐に流罪になります。後に許され京都に戻り「一枚起請文」を最後の教えとして80歳で知恩院にて入寂します。 法然の死後、弟子達によって浄土宗はさらに広まってゆきました。
浄土宗の御本尊
阿弥陀如来、梵名をアミターバ(無限の光をもつもの)あるいはアミターユス(無限の寿命をもつもの)といい、大乗仏教の如来の一つ。阿弥陀仏・弥陀仏などともいいます。日本人におなじみの「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏ですが「南無」は帰依するという意味で、つまり南無阿弥陀仏とお唱えするのは阿弥陀様におすがりしますという意味となります。 阿弥陀三尊として祀られるときは脇侍は左が観音菩薩、右が勢至菩薩になります。また、西方浄土の主ですから、マンダラなどでは方位的に必ず西に配置されます。阿弥陀如来に由来する有名な言葉として「あみだくじ」や「十八番(おはこ)」があります。あみだくじは昔は放射線状であり、阿弥陀如来像の光背に似ていることからその名がつき、十八番は、浄土教において四十八願のうち第十八願を本願として重要視することから、転じてもっとも得意なことを指す言葉になりました。
浄土宗総本山 知恩院
京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。ご本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基は法然。浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」と呼ばれています。
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